だいたい音楽理論の入門書を読むとT(トニック)、SD(サブドミナント)、D(ドミナント)というのが出てくる。C major scaleでは、C,F,G7がそれぞれT,SD,Dだという説明がある。
※ 本ブログでは、大文字のCは、ド・ミ・ソの和音。小文字のcはドの単音を意味します。
そうすると「G7みたいな7がつくやつはドミナントなんだな?」と理解する人が出てくる。
だけどその理解は間違っている。言うまでもなくG7だけでなくGもドミナントである。
「わかった。じゃあ、G7だけでなくGもドミナントなんだな?Gはいつでもドミナントなんだな?」
この理解も間違っている。C major scaleに対してGがドミナントなだけで、属調(G major scale)だとこれはトニックだ。Gという和音が単体としてドミナントとしての性格を持つわけではない。
「そうか。わかってきたぞ。いまどのスケールにいるかが重要なのか。いま、どのスケールにいるかで和音の性質が変わってくると。」
正しい。
「スケールというのは、いま使っているサウンドセットだろ?つまり、使っている音の集合だ。C major scaleならド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ドの音を使っているわけだ。このときに、例えばファ・ラ・ドならサブドミナントとして作用するということだよな?」
残念ながらその理解も間違っている。例えば、C major scaleの平行調であるA minor scaleでは使う音は前者と同じであるが、FはA minor scaleの6番目の和音で、6番目の和音だから、これはトニックに属する。(と音楽理論書には書いてある。) つまり、ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ドを使っているからと言って、Fがサブドミナントとは限らない。
「いや、ちょっと待て。いま演奏されている曲がC major scaleかA minor scaleであるかだなんて同じドレミファソラシドを使っている以上、区別がつかないんじゃないのか?前後でドレミファソラシドが使ってあるとして、ある小節でFの和音が鳴ったとして、そこがC major scaleなのかA minor scaleかだなんて判別つくか?つかないだろ?つまり、その和音がトニックかサブドミナントかだなんて結局、作曲者の主観に過ぎないのではないのか?」
さて、あなたなら彼の質問に何と答えますか?短調と長調でのメロディの組み立てかたの違いを説明しますか?短調と長調でのコード進行の違いを事細かに説明しますか?本記事で取り扱うべき範囲を超えているので、ここではそれらの説明は割愛します。ここに本来あるべき彼の疑問に対する回答をどうか想像してお楽しみください。
「なるほど。短調と長調の違いはわかった。しかし、音楽理論書の最初のページに書いてある、T、SD、Dという概念はどうしてこうも複雑なのか?こんなにややこしいなら、音楽理論書の最初のページなんかに書くべきではないだろ。当初、音楽理論書を最後のページまで読んでなお、この概念が全く理解できなかったのだが?」
そうだな…。私は考える。
結局のところ、T,SD,Dというのはファンタジーなのかも知れない。作曲者がどの音かを主音として決定して、現在のスケールとして何らかを想定しているとしよう。そのとき、トニックと呼ばれる安定的な和音が求まる。A minor scaleでaを主音と心に決めたならAmがトニックだ。その安定的な和音に対して準安定的な和音(サブドミナント)と非安定的な和音(ドミナント)が定まる。作曲者はトニックが安定的な和音と信じているので、トニックに終止感を求める。また、aを主音だと思っているのでaに終止感を求める。そういうメロディや曲の組み立て方をする。
言うなればT,SD,Dという概念自体が幻想なのだ。作曲者が描いた幻想。その幻想から生まれた音楽は、その幻想を共有している人には心地よいものとして伝わる。音楽や言語にはもともとそういう性質があるのだろう。同じプロトコルを共有している者にだけ正しく伝わるというような…。
> ある小節でFの和音が鳴ったとして、そこがC major scaleなのかA minor scaleかだなんて判別つくか?
あくまで古典和声に限れば話は明快で、前後にドミナント進行があるかどうかを見て判断ですね。どこまでも強進行を基準にして、相対的に考えるのが古典和声の立場です。ドミナント1楽節で1極小調と解釈することもままありますしね。作曲者がどう思ってようが関係ないです。その理論に価値があるかないかは別として・・・
ただし近現代音楽ではケースバイケースが多いですね。理論的にどのスタンスをとっているかの問題なきがします。
> 前後にドミナント進行があるかどうかを見て判断ですね。
本記事の会話文のなかでは
1) コードチェンジのない1小節だけに注目して(前後のコンテキストを参照できないという条件下において)、調性を判断できるか
2) 前後のコンテキストを参照していいときに調性を判断できるか
というどちらともとれる話を(この会話文の発話者は)しています
2)の場合、おっしゃる通り、前後にドミナント・モーションがあれば当然、それをもって(古典和声の範囲においては)判断できます。
1)の条件下においても現実的にはメロディのフレーズやバスの動きからかなりの精度で判定は出来ます。
しかしそういう話を書き出すとキリがないため(本記事で取り扱うべき範疇を容易に超えてしまうため)、あえて書いていないのです。その点、ご理解ください。
# 本文の引用部が長すぎたので管理者権限で編集させていただきました。
学問はどうしてあるのでしょうか?
私は「真理があるから学問がある。」
ではないと思っています。
学問とは体系化することだと思っています。
その体系化されたモノが真理であるかどうかは
誰にも分らないモノだと思っています。
例えば数学において1+1=2は真理であるかどうかは不明だが
そういうふうに体系化して不都合が無いから
それが正しいということにしているに過ぎないという事です。
音楽で言うと平均律は純正律を人工的にイジって
体系化したものだが大きな不都合がないので
それを正しいことにしているという事です。
そういう視点にたってみるとT,SD,Dは
音楽という学問の体系化の側面に過ぎない。
それらをどう捉えるかは音楽という学問を
どう捉えるかで意味の有無が変わってくると思う。
例えばネイティブな言語を喋るときに各単語の機能
(例えば「主語」「述語」「目的語」「補語」など)
を意識して喋る事は無い。
しかし学問として習う場合は機能を意味あるものとする。
鼻歌で適当なメロディーを歌う場合、
体系化された学問の音楽理論に縛られる必要はない。
(ただ出てくるのはその人が経験したモノになってしまうが…)
私は学問は体系化であり真理であるかどうかは不明と言った。
ならば真理ではないかもしれない学問は何故あるのか?
それは共有する必要があるからです。
大切なのは真理であるかどうかではなく
共有にあると思っています。
つまり共有しない者にとっては意味の無いもである。
例えば三全音を「音楽の悪魔」と言われた時代に
共有している者たちにとっては
それは避けなければならない体系化された音楽理論であるが
「音楽の悪魔」を共有しない者たちにとっては関係ない
モノである。
そういう者たちを体系化することで律していくのだと思う。